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    • 2013.04.23 Tuesday
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    部族

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       カメラ・ブログというタイトルだ。

      今までサウディアラビアのことも殆ど写真を付けた。

      しかしこの部族のお話には適当な写真もない。


      その上理屈っぽく長い。

       

      書こうか書くまいか2週間迷った。

      読んで戴けなくても良いと思って書くことにした。

       

      「アラビアでは部族が重要である」

      40年前、会社の大先輩から諭された。

      余り気にしてなかった。しかし、

      こんな破天荒な事態が起きると、

      先輩のアドバイスが身にしみた。

       

      部下の一人が本社からの出張者を連れて田舎の集落を走っていた。

      運転は現地の熟練ドライバー。

      GMCサバーバンというオフロード用の頑丈な車。

      突然、一台の乗用車が反対側から同じ車線を逆走して来た。

      こちらは事故を避けるためにストップ。

      しかし相手はストップせず、正面衝突。

      幸い怪我はなかった。

      相手の車が大破、こちらは小破。

       

      集落の警官がやってきた。

       

      警官は何も言わずにこちら側のドライバーを拘束。

      留置場に連行。

       

      猛烈に抗議する部下に警官は言い渡した。

       

      あなたのドライバーを釈放して欲しければ、

      あなたの会社の責任者から、

      逆走した運転者に対する一切の損害賠償

      などの権利を放棄するという趣旨の

      誓約書を貰ってきなさい。

       

      つまりこういうことだった。

      逆走してきたドライバーも、その警察官も現地集落の住民、

      つまり同じ部族の一員だったのだ。

       

      何たる依怙贔屓!

      勿論、サウディアラビアでも、裁判すれば正しい者が勝つ。

      しかし、時間がかかる。

      その間罪もないこちらの運転手を牢屋に放置することは出来ない。

      憤懣やるかたなく、一筆に署名し、運転手の身柄を取り戻させた。

       

      伝統的なアラビア社会では部族がすべてに優先する。

      なぜか?

      太古の昔から部族は構成員の生命の保証だったからだ。

       

      アラビア人、ユダヤ人など、いわゆるセム族の人たちは、

      イエーメンで部族ごとに集落を作って、

      農耕生活を営んでいた。

      しかし、すでにご紹介したウインクラー・ガエタノ理論の説明する通り、

      アラビア半島は高温化、乾燥化し、

      イエーメンの農業生産力では食べて行けなくなった。

       

      食いはぐれた人々は部族ごとにまとまって、

      可耕地を求めてアラビア半島を北へさまよい出た。

      アラビア半島のオアシスの周囲に可耕地はあった。


      しかしそこには既に他の部族が定住し、農耕を営んでいた。

      部族同士のオアシス争奪戦。

      勝てばそのオアシスを奪い、

      負ければ砂漠のベドウインとして彷徨する運命。

      多くの兵士が死んだ。

       

      個人は部族に属し、部族に忠誠を誓う以外生きる道はない。

      部族が大切なのは分かる。

       

      しかし、この現地警官の判断は、少し行き過ぎだと思う。

      しかし事実だった。

       

      「異文化コミュニケーション論」という学問があるそうだ。

      そのテキストに面白いデータがあった。

      これを見ると少し疑問が解けるかも知れない。

       

      設問1:

      「あなたは友人の運転する車に乗りました。

      友人は制限速度を破り事故を起こした。

      裁判所であなたは証言を求められました。

      正直に話せばあなたの親友は有罪になります。

      あなたはどう答えますか?」

      この設問に対する答えを国別に統計に取った。

      結果は民族によって著しく違っている。

      一番正直なのはスイス人で97%

      一番融通が利くのはヴェネズエラ人で32%

      同じ欧州でもドイツとフランスと比べると

      ドイツ人は87%が、フランス人は73%

      ガチンコだそうだ。

       

      ではドイツ人、つまりゲルマン系の人は、

      ラテン系の混じるフランス人より常に正直か?

       

      設問2:

      「あなたはグルメの評論家。

      新聞にレストランの批評を寄稿しています。

      あなたの親友が新しいレストランを開きました。

      あなたはそのレストランで食事をしました。

      残念ながら余り美味しくありません。

      あなたはそのことを正直に新聞に書きますか?」

      この設問となると両国の傾向は逆転する。

      フランス人は63%、ドイツ人は61%

      僅かながらフランス人の方がガチンコ

      である傾向が見られたというのである。

       

       

      シロフクロウ

       

      上記の設問の出典

      Fons Trompenaars著 Riding the waves of Culture

       

       

       


      鉄砲水

      0
         サウディアラビアにも時として雨が降る。

        それも短時間に豪雨が降り注ぐことが多い。

        山にはほとんど樹木がないので大洪水となる。

        治水は政府の大切な仕事。


        これはイエーメンとの国境の町ナジュランの郊外にあるダム。

        その日は最後に雨が降ってからかなりの日数が経っていた。

        だからダムにほとんど水はなかった。

        でも左側の壁の色を見れば、時としてどのくらいの水量が流れるか

        見て取ることが出来る。

        ダムの畔に咲く真っ赤な花、青い空。

         

        ダムの堤防。


        ダムの下流は流れに沿って緑の樹木が並んでいた。


        ナジュランからジェッダへの帰り道、

        ジェッダからナジュランへの往路はアッシール

        山脈の尾根伝いの山道だったので、帰りは紅海

        の岸まで下りて海沿いに走ることとした。


        まずはこの流れに沿って自動車道路を下った。


        ナジュラン市の外れに検問所。

        イエーメン故郷に近いから密入国者でも調べるのか?

        何も調べず黙って通してくれた。

        何のために検問所があったのか?

        ちょっと不思議だった。


        しばらく立派な舗装道路を走る。

        サウディアラビアの自動車道路はどこも立派だ。

        補修でつぎはぎになっている所など見たことがない。


        しかし、この道路が突然道路が引きちぎられていたのを見て驚く。


        仕方なく河原に下り大小の石の転がる上を走った。

        アメリカ製の4WDGMCサバーバンは

        オフロードなどものともしない。

        普通乗用車では大変だったろうと思いながら

        チョロチョロ流れる細い流れに沿って、

        大小の小石の転がる河原を走った。


        すると突然目に前に現れた決壊した橋梁。


        その下に転がる大きな岩石。

        こういう大きな岩石が衝突したので橋が吹っ飛んだのだろう。


        その犯人は橋の下を流れる水。

        大雨が降ると樹木のない山から鉄砲水が谷川を下る。

        岩石を巻き込む土石流。

        道路も橋も押し流される。

        上流の検問所は降雨が予想された時に

        交通を遮断するためだったのだろう。



        この道中、こんな光景に5回もお目にかかった。

        アラビア人にとっては、乾燥も大敵だが

        突然の豪雨も大変な自然の脅威なのだ。


        シロフクロウ

         


        古代のホロコースト

        0
          前回ナジュランのアル・オクドウードにあるローマ帝国の遺跡を
          ご紹介した。

          遺跡を見学していたら、誰かが「骨だ」と声を上げた。

          見るとローマ時代の石積みに積み重なる泥の壁から、

          人骨らしきものがあちこちに突き出していた。

          風化していて触るともろく崩れた。

           

          これを見て、このアル・オクドゥードが太古の有名なホロコーストの

          現場でもあったことを思い出した。

           

          アラブ人、ユダヤ人、フェニキア人などセム族と云われる民族の

          祖先の地古代イエーメンは、長くシェバ王国が君臨した。

          それをヒムヤル王国が亡ぼした。

          ヒムヤル王国を支配した部族は、すでにハーミス。ムシャイドの

          章でご紹介したカータニ族の祖先だと云われている。

           

          ヒムヤル王国はゾロアスター教を信じるペルシャ、及び

          キリスト教を信じるビザンチン帝国と勢力を争った。

           

          ヒムヤル王国の国王ズー・ヌワースは突然ユダヤ教に改宗した。

          それはヒムヤル王国の北方の脅威だったキリスト教ビザンチン帝国

          に対する敵意の表れでもあったと言われる。

           

          それだけなら良いのだが、ズー・ヌワーズ国王は国民の中で

          国王に従わずキリスト教を棄教しなかった者たちを、

          アル・オクドウードの地で、ユダヤ教徒に地中に坑を掘らせ、

          埋めて焼き殺させた

          紀元523年のことである

           

          コーラン第85は次のよう一節がある

          「坑を掘り松明をともして、その周りに座って、

          正しい者たちが拷問の責め苦に遭うのを眺めていた者たち

          は呪われよ。

          (拷問を受けた者たちが)地上及び天国を支配される全能の祝福

          された神を信じていたというだけの理由で拷問を受けたのだ。

          しかし神はすべてをご覧になられた。

          正しい信仰を持つ者を虐げ、悔い改めぬ者は、

          男女を問わず、(死後)地獄の責め苦、劫火に焼かれて

          その報いを受けるだろう。

          しかし、正しい信仰を守り、善行を積む者たちには

          (死後)な水が豊かに流れる楽園が、そのご褒美として

          与えられる。これこそ至高の勝利なのだ」

           

          これは紀元523年のホロコーストのことを述べていると言われてい

          る。

           

          アル・オクドウードの泥の中の残る多くの人骨、

          これらはこの虐殺の跡ではなかろうか。

           

          なお、すでにお気づきのことと思うが、コーランはイスラム教の

          聖典である。しかし、同じ神を信じるセム族の一神教

          キリスト教、ユダヤ教を比べると、キリスト教の肩を持つ

          ことが多いように感じられる。 


          シロフクロウ

           

           

           


          ナジュラン ローマ帝国の野望

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             サウディアラビアに赴任するまでにも、ギリシャ・ローマ時代
            の遺跡を見ていた。

            レバノン奥地のバールベック神殿、イタリアのフォロロマーノ、
            フランスのポン・デュ・ガール、チュニス郊外のカルタゴ、
            イギリスのバスの大浴場・・


            それらを見る度にローマ帝国の偉大さに感動させられた。

             

            サウディアラビアでサウディアラビア最南端のナジュランに

            ローマの遺跡があると聞いたのはうれしい驚きだった。

            しかし一度見たいと思いながら、出かける機会がなかった。

            そして5年たった時、今行かなければ恐らく一生行けないだろうと

            思ってナジュラン行きを決めた。

            ジェッダから1000キロ走り、ある日の午後2時過ぎナジュラン郊外

            のアル・オクドウードにたどり着いた。

             

            遺跡の入り口を見つけて入ろうとすると、

            午後2時で閉門だと分かった。

            折角はるばるやってきたのにと失望落胆。

            しかし神アッラーは我々を見捨てなかった。

            イエーメン生まれの運転手デファラが門番と何事か話してくれた。

            その結果我々はめでたく入場を許可された。

            門番がデファラと同じ部族の出身だったおかげだった。

             

            中東では部族を理解しないと何も出来ない。

            これはそれより30年近く前、初めて中東を担当した時、

            中東の権威の大先輩から諭されたことだった。

             

            ところで、肝心のローマの遺跡はちょっとガッカリだった。

            これがローマ帝国の遺跡であるといわれなければ、単なる泥をかぶっ

            た壊れかけた石積と勘違いするようなものしかなかったのだ

             

            この遺跡が他のローマの遺跡に比べ見劣りする理由は、

            ローマ軍がここにとどまった期間が短かったためだろう。


            紀元前イエーメンは「幸福のアラビア」と呼ばれ、

            シバの女王で有名なシェバ王国及びその後継者

            ヒムヤル王国が栄え、乳香、没薬などの貴重な産物を

            西欧にもたらして繁栄していた

             

            その繁栄を我が物にしようと企んだのがローマ帝国

            初代皇帝アウグスツスだった。

            彼は紀元前24年、配下のエジプト総督アエリウス・ガルスに

            1万の兵士をつけてイエーメン征服を命じた。

             

            ガルス総督は、すでにお話しした、ナバテア人を水先案内人

            として紅海を南下、恐らく現在のジザン付近に上陸し、

            ナジュランのアル・オクドウードまで険しい山を上り、そこを前線基

            地としてイエーメンに攻め込んだ。

            しかし、炎熱と乾燥にさいなまれ兵士の殆どを失って、1年もしない

            うちに這々の体でアラビアを後にしたと記録されている。

            恐らく炎熱、乾燥の他にロジスティクス上の困難による飢餓など

            もあったろう。

            ローマ軍は他の征服地に建設した壮麗な建造物を築く間もなく

            撤退してしまったものと考えられる。

            しかし、奴隷を使ったにせよ、建設機もない時代に短期間で

            これだけの石材を調達したローマ帝国のエネルギーは立派。

             

            ローマ帝国の敗退の原因に、ナバテア人の裏切りを挙げる説もある。

            ナバテア人は、イエーメンと地中海世界の通商で栄えた。

            ローマにナバテア王国を頭越しに直接イエーメンを支配されては

            ナバテア人としては生活権が危うくなる。

            ナバテア人の裏切りも大いにあり得ることである。

             

            この遠征の顛末はギリシャ人のストラボーという人が

            「地理学」という本に書き残している

             

            もし仮に、ローマ軍がイエーメン征服に成功していれば、

            恐らくこのアル・オクドウード遺跡も地中海周辺の

            他のローマ帝国の遺跡同様に壮麗なものになっていたかも知れない。

             

            それでも今から2千年前に遠路イエーメンまで遠征したローマ帝国の

            気宇壮大さはよく分かった。


            敗退したにせよ、人類史上アラビア半島にここまで奥深く

            進出したのは、ローマ帝国とオスマン帝国しかない。


            シロフクロウ

             


            ナジュラン 「幸福のアラビア」の夢

            0
               サウディアラビア西南のイエーメンはセム民族の故郷。

              きわめて歴史が古い。

              今から数千年前、降水量が豊富で農業が盛んだった。

              紀元前8世紀頃シバの女王が建設した巨大なダムの遺跡が残る。

               

              イエーメンは乳香・没薬を産し、その上インド洋を経由して

              東南アジアからなどの高価な産物が流入。

              諸都市には日干し煉瓦造りの高層建築が立ち並んだ。

               

              当時のイエーメンはギリシャ人、ローマ人から

              「アラビア・フェリックス」つまり「幸福のアラビア」と呼ばれていた。

               

              イエーメンとの国境のそば、サウディアラビア最南端の都市ナジュランは、「幸福のアラビア」の入り口だった。

               

              これはサウディアラビア王国成立以前ナジュランを治めていた

              エミール(首長)の屋敷の内部。

              今でも大切に保存されている。

               

              白い厚い壁、カーペットを敷き詰め壁際にはクッション、

              そして所々に肘掛けを配置されている。

              そして上の窓にはステンドグラス。


              ナジュランを訪れたのは1995年のことだが、

              この室内を見てそれより4年前に出張したイエーメンを思い出した。

               

              イエーメンの首都サナアは世界で一番古い都市といわれ、

              世界遺産に指定されている。

              1992年、サナアに出張した。

              取引先の豪商の家で昼食をごちそうになった。

              カーペットの上に山海の珍味が並び、

              人々はごちそうの周りの床に座り、

              ナイフ、フォークなど使わず右手で食事をした。

              子羊の丸焼きを炒めご飯にのせたメインディッシュ、

              ナスをすりつぶしオリーブオイルと香辛料を混ぜたペースト、

              イーストを使わないため平べったいアラビア風のパン、

              色とりどりの果物、

              そしてデザートにはイエーメン特産の濃厚な蜂蜜を使ったケーキ。

              ステンドグラスをはめた分厚い建物の壁のおかげで

              室内は蒸し暑い外部とは別世界。

               

              ナジュランのエミールの屋敷を見学していると、

              4年前のイエーメンのことが懐かしく思い出された。

              その後イエーメンでは内戦が始まり、渡航自粛地区に指定されてしまった。

               

              4年前に持って行ったキャノンの新品のカメラは、

              信じられないことだが、

              3回シャッターを押したら動かなくなった。だから

              あの夢の国のようなイエーメンをここにご紹介できない。

              いかにも悔しい。

               

              話をナジュランに戻そう。

              エミールの屋敷の屋上からの眺め。


              これはエミールの屋敷の玄関。

               

              井戸が中庭にあるのは、敵に攻められた時の籠城戦のための配慮だったのだろうか。

               

              ナジュランおよびその周囲は農業の盛んなところ。

              市街地のそばには畑が広がる。

              大麦、小麦、トウモロコシ、トマトなど各種の野菜、

              デーツ、イチジク、スイカなどの果実が豊富に収穫できるそうだ。

               

              ナジュランは昔の「幸福のアラビア」を想像させてくれる都市である。


              シロフクロウ

               

               

               

               

               

               


              ハーミス・ムシャイド (2)

              0
                 ハーミス・ムシャイド近郊のアル・ハブラという所に、

                英語でハンギング ヴィレッジという名の観光名所がある。

                既にお話しした通り、アラビア半島は16世紀から20世紀初頭まで

                オスマン帝国が宗主権を握っていた。

                しかしもとからのアラビアの住民は、常にそれを不満としていた。

                特にカータニ族という部族の一部はオスマン帝国の支配に抵抗、

                このような絶壁の途中の狭い岩棚に隠れた。

                ハンギング・ビレッジはそのカータニ族の隠れ家の遺跡である。

                 

                崖は垂直に近く、ハンギング ヴィレッジを見学するには、断崖絶壁

                の上から6人乗りのロープウエーで谷の中腹まで下りる。

                これはロープウエーから谷を見下ろしたところ。


                ロープウエーの終点はカータニ族の隠れ家と同じ高さの

                ところにある。これはそこから上を見上げたところ。

                この周囲が昔のカータニ族の生活空間であった。

                生活空間と言っても垂直に近い断崖の途中の岩棚。

                広いところで幅5〜10メートルくらいしかない。

                そこに畑や石造りの住居がある。

                狭いので住居もきわめて小さい。

                この写真の一番手前がカータニ族の畑だった。

                畑から細い道を行くと崖縁に作られた石造りの住居にたどり着く。

                しかし今ここには誰も住んでいない。

                従ってカータニ族を実際に見ることは出来なかった。


                カータニ族もアラブ人の一部族である。

                つまりイエーメンに起源を持つセム民族の仲間だ。

                先祖を遡ると太古のイエーメンで栄えたヒムヤル王国にたどり着く。

                ヒムヤル王国はシバの女王で有名なシェバ王国を亡ぼした。

                現在のイエーメンの首都サナアを中心に、紀元前110年から紀元後520

                年ごろまで、アラビア半島西部に君臨した。

                彼らは東アフリカの象牙、東南アジアに産する香料、イエーメンに産

                する乳香・没薬のローマ帝国への輸出で栄えていた。

                ローマ帝国がヒムヤル王国の富を横取りしようと、遠征軍を派遣した

                こともある。そのことは近くお話するつもりだ。


                手許にカータニ族の写真集がある。

                フランス人のThierry Maugerが出版したUndiscovered Assirという本

                だ。これはamazon.comでも手に入るようだ。

                カータニ族は服装が普通のアラブ人とは全く異なる。

                男性は腰に巻きスカートを着用、ベルトに短剣をさしている。

                この点は現在のイエーメン人も同じである。

                上半身は長袖のワイシャツのようなものを着ている。

                その色は多くは黒か紫だが、時に色とりどりの派手なものもある。

                頭には色とりどりの布または細い木の枝でできた鉢巻きを頭に巻き、

                その鉢巻きに草花をさしている。

                その印象は、台湾の原住民やアイヌ人に似ているように見える。

                 

                オスマン帝国がアラビア半島の西部を支配していた数百年の間、カー

                タニ族は、こんな崖の岩棚でどのような生活をしていたのだろうか。

                 

                20世紀初頭、サウディアラビア王国が成立し、

                オスマン帝国軍がアラビア半島から姿を消した。

                ここにいたカータニ族も地上に姿を現した。

                今でもアブハの西30キロほどの山の中の町

                リジャール・アルマ近辺にはカータニ族が

                政府に保護されて昔からの民族の風習を守って

                生活しているとのガイドの話であった。


                シロフクロウ









                 




                 


                ハーミスムシャイド(1)

                0
                   アブハから約40キロ東にハーミス・ムシャイドという町がある。

                  途中自動車道路の両側には段々畑が広がり、

                  時々大きな日干し煉瓦の家が姿を現した。

                   

                  サウディアラビア中央部の砂漠周辺の建物と比べ、

                  背が高く、時に壁を白くペンキで塗装したものがある。

                  イエーメンの影響が強く感じられる。

                   

                  ハーミス・ムシャイドの中心部にある広場。

                  この写真の右上に黒装束の女性が3人見える。

                  これはジェッダ日本人会のご婦人たち。

                  サウディアラビアでは外国人女性もアバヤと

                  呼ばれる黒装束の着用が義務づけられている。

                  その横に一人赤い洋服を着た女性らしき姿が写っている。

                  これは日本人ではない。

                  サウディアラビアといっても地域差があり、

                  アッシール地方は比較的規則が緩やかである。

                  それを知らなかった日本女性は少し損をしたかも知れない。

                  しかし用心をするにこしたことはない。

                   

                  広場の手前にある号令台のようなもの、

                  これは町の公開処刑台なのだそうだ。

                   

                  広場の向こうに見えるのはスーク(市場)の入り口だ。

                  ちょっと覗いてみよう。

                    

                  肉屋の店先には牛や羊がまるごとぶら下がっている。

                  これはその家畜が正しい方法で屠殺されたことを、

                  買い手に証明するための展示方法。

                  イスラム教徒はハラールと言って、

                  アッラーの御名を唱えながら、頸動脈をナイフで切り、

                  体中の血液を全部排出した肉しか食べてはいけない。

                  これはアッラーのご命令だが、

                  考えてみればアラビアの様に気温の高い所では、

                  その方が腐りにくく近代医学的にも正しいことだと思う。

                  イスラムの教えには他にも科学的医学的に正しいことが多い。

                  予言者ムハンマドは偉大な科学者でもあったという人もいる。

                  しかし、真面目なイスラム教徒はそのようなことは言わない。

                  すべてアッラーの思し召しである。

                    

                  これはアラビア半島のどこの町にでも必ずある貴金属店。

                  ジェッダやリヤドなどでは18金以上の純度の黄金製品

                  しか扱っていないが、この店の壁には銀製の装身具が

                  たくさん掛けられている。これもイエーメンの影響だろう。

                    

                  スークの通路には屋根がかけられていた。

                  その通路の真ん中で白い顎髭の老人が、

                  石畳の上にカーペットを敷き、

                  胡座をかいて商いをしていた。

                  老人の前にはガラス瓶や布の袋が並べられ、

                  その中にはいろいろな木の枝や木の皮を細かく

                  切った香木が収められ、老人は客の注文に応じて、

                  分銅を使った秤で計量して売っていた。

                   

                  老人とその隣の人物の衣装を比べていただきたい。

                  老人は黒いトーブを着て、頭にはイガールという

                  黒い二重鉢巻きをかけず、赤い豆絞りのゴットラという

                  スカーフだけ無造作にかぶっていた。


                  両隣の二人の格好の方がサウディアラビアでは一般的だ。

                  なおゴットラには赤のほかに純白のものもある。

                  またそのかぶり方は部族や身分によって違う。


                  老人が口に咥えている20センチくらいの皮付きの

                  細い木の枝は、アラビア式歯ブラシである。

                  これで歯の掃除をする。


                  シロフクロウ

                   

                   


                  アブハ (3) 

                  0
                     日本では余り知られていないことなのだが、
                    アラビア人はホスピタリティーで有名。
                    折角来たお客を退屈させないように時間を有効に使わせてくれる。

                     

                    前回ご紹介したアブハのアル・スーダ山からホテルに戻ると、

                    今度はバスで小一時間走り、

                    シアールという所に残るオスマン帝国軍の要塞址に案内された。

                     

                    オスマン帝国は16世紀から20世紀初頭までアラビアの宗主国だった。

                    2度にわたりサウド家の本拠地ダライーヤまで侵攻した。

                    19世紀初頭にはダライーヤ城を徹底的に破壊した。

                    しかしそれは一時的なこと。

                    所々に砦を築き守備兵を配置しただけで本隊は引き上げた。

                    炎熱と乾燥に耐えかねたのだろう。

                    ペルシャ湾岸と紅海沿岸は比較的オスマン帝国の浸透が濃かった。

                    でも要塞を築いて守備兵を配置する、いわば点と線の支配だった。

                     

                    シアールに残っているのはその要塞の廃墟の一つ。

                     

                    しかしこの要塞がいつどのような状況で破壊されたのかは

                    ガイドも知らなかった。

                     

                    可能性として考えられるのは、

                    1次大戦中ハシム家のフセインの軍隊が破壊した。 または

                    または第一次大戦後サウド家の軍隊が破壊した。

                    の二つくらいだ。


                    ハシム家とは予言者ムハンマドの直系の子孫。

                    代々トルコの支配下、聖地メッカ自治領のシャリフの地位にあった。

                    第1次大戦中ハシム家の当主フセインは英仏と同盟してトルコに

                    叛旗を翻した。

                    アラビアのロレンスはこのフセインと共に戦った。


                    フセインの目指したところはアラブの完全独立であった。

                    しかし彼の夢は戦後英仏の帝国主義に裏切られ、

                    フセインは1916年旧オスマン帝国のメッカのシャリフ自治領

                    のみを支配するヒジャーズ王に甘んじた

                    しかしヒジャーズ王フセインはサウド家の軍勢に追われ

                    1925年にヒジャーズ王国は滅亡した。

                    その時のサウド家のヒジャーズ方面軍の司令官は

                    後のサウディアラビア王国第3代国王のファイサル王子であった。


                    なおハシム家の子孫は現在のヨルダン王国の国王となっている。



                    要塞のそばにオスマン帝国の兵士たちの粗末な墓地が残っていた。


                     

                    墓地と言っても荒れ地に石を並べただけのもの。

                    そこに眠る兵士の名前が刻まれているわけでもない。

                    故国を遠く離れたアラビアの地で命を落とした

                    トルコ兵たちの心やいかに。


                    要塞の遺跡を赤く照らした夕日は沈み、高度2000メートルの

                    アブハ郊外シーアルを吹く抜ける風は冷たかった。



                    シロフクロウ


                    アブハ その1

                    0
                       アブハはアッシール山脈の南部、ジェッダから直線距離で

                      500キロの所にある。

                      サウディアラビアで一番標高が高い都市。夏でも涼しい。

                       

                      これはアブハ空港からホテルに向かうバスの車窓風景。

                      周囲には段々畑が広がっていた。

                      これらは石油が発見される前、人々が人力で開墾した。

                       

                      サウディアラビア人は石油の上にあぐらをかいて

                      働かない人たちだという人がいる。それは本当ではない。

                      働かない人に、こんな畑が作れるわけがない。

                       

                      サウディアラビアには炎熱の砂漠しかない、

                      という人もいる。それも本当ではない。

                      涼しいし、潅漑用にこんなダムもある。

                       

                      サウディアラビアを全部見る暇はなかった。

                      しかし、19世紀、ラクダに乗ってアラビア半島を旅した人の

                      旅行記には、畑や果樹園のことが記されている。

                      これはアブハではなくタイフの郊外の果樹園のザクロ。

                      サウディアラビアのザクロは甘みが強い。

                      北のジョウフという町の近くにはブドウなどが

                      たわわに実る果樹園もあるそうだ。


                      ところで、

                       

                      なんでこんなブログを書くかと言えば、

                      サウディアラビアといえば炎熱の砂漠、石油成金

                      というステロタイプなイメージを打ち破りたかったこと。


                      確かにサウディアラビアで生活するのは楽ではない。

                      だから任地としては人気が低い。

                      しかし、人間好奇心さえあれば、サウディアラビア

                      でも幸せに暮らすことは出来ることのだ。


                      人生至る所青山ありなのだ。



                      シロフクロウ

                       


                      アル・ジュナイナ エデンの園

                      0
                         エデンの園がサウディアラビアにあった、という学説がある。

                        これがその場所だ。アル・ジュナイナという。

                        アル・バハから東に約200キロ走ったビーシャの町から更に車で20分

                        北上した村だ。


                        左の隅にイチジクの木が見える。

                        このイチジクの祖先の葉でアダムとイブが恥部を隠した

                        のかも知れない。

                         

                        この学説は「聖書アラビア起源説」という本で理論的に証明されている。

                        著者はベイルートのアメリカン大学のカマール・サリービ教授。

                        いかさま学者ではないらしい。

                        広河隆一・矢島三枝子両氏による日本語訳が草思社から出ている。

                         

                        実際に証明するためにはサウディアラビア西部の発掘調査が必要だ。

                        これが本当だったら、パレスチナを約束の地だと信じている

                        イスラエルの人たちはとんでもない勘違いをしていたことに

                        なってしまう。

                        1948年以来の中東戦争で亡くなった人たちも浮かばれない。

                        大変ショッキングな学説だ。

                         

                        しかし、よく考えるとあり得る話でもある。

                        間接証拠なら沢山ある。

                        旧約聖書はユダヤ人の祖先の記録。

                        ユダヤ人はセム民族の一部族。

                        元々イエーメンに住み、北に向かって民族移動を行い、

                        パレスチナ近辺に定住した。

                        民族移動の最短経路は紅海に沿った現在のサウディアラビア西部。

                        旧約聖書の原型はその民族移動の時代にできあがったこともあり得な

                        いことではない。


                        イスラム教の聖地であるマディーナは預言者ムハンマドの

                        時代にはユダヤ人の町だった。


                        聖書のソドムとゴモラは火山がなくては起こりえない話。

                        パレスチナには火山はない、サウディアラビア西部のアッシール山脈

                        はには死火山が連なっている などなど。

                         

                        ある週末にジェッダ日本人会の会員約50名が、アル・バハ

                        一泊し、エデンの園があるとされるアル・ジュナイナを訪れた

                        のはその学説の影響だった。

                         

                        場所はアル・バハから東のビーシャという町の近く。

                        ビーシャは良質のデーツを初めとするその近くの農産物の集散地。

                        サッカースタジアムもあり地方空港もある立派な町だった。

                        ビーシャから砂漠の中を走る国道を20分ほど北上する。

                        その間は砂漠と低い岩山で、エデンの園の雰囲気ではない。


                        砂漠の所々にラクダの白骨が散らばっている。

                        この写真、もっと骨に近づいて、腹ばいになって撮れば一見ダリの絵

                        画風になっただろうにと、20年近く経った今でも後悔している

                        今は撮影旅行にはいつも100円ショップのゴザを持参している。


                        余談はさておき。


                        突然砂漠の向こうに緑の林に囲まれた村が姿を現す。

                        村の中には水量豊富な井戸が沢山ある。

                        これがアル・ジュナイナである。

                        ジュナイナとはアラビア語で園を意味する。

                         

                        驚いたのは村人たち。

                        突然大型観光バスで、見慣れないアジア人が大勢姿を現した。

                        好奇心の強い少年たちが我々の周りに集まり、村を案内

                        してくれた。

                        よく見ると女の人たちも木陰から我々を見ている。

                        しかし、そちらに目を向けると彼女たちは顔を木の幹に隠す。


                        羊やラクダも沢山いた。


                        驚いたのは林の中の空き地のブルーシートの上に

                        デーツが山盛りに積まれて、羊がそれを食べていたことだ。

                        デーツはベドウインなら1日数粒で命をつなげる滋養物。

                        それを羊に食べたいだけ食べさせている。

                        さすがエデンの園、昔神様はアダムに

                        「園のすべての木から取って食べなさい・・」と言われた。

                        今は、人間が神様のご恩を羊に施している。


                        たしかにこのアル・ジュナイナはエデンの園に擬されるだけの豊かな

                        土地ではある。

                         

                        19世紀にアラビア半島を横断したイギリス人

                        セイント・ジョン・フィルビーもここに一泊したそうだ。

                         

                        この「聖書アラビア起源説」、我々にはショッキングなのだが

                        現地では寧ろ当然のことだと思われている。

                        多分そういう伝承や民話があるのだろう。

                         

                        例えばジェッダという名はアラビア語で「おばあさん」という意味、

                        ジェッダの旧市街のそばに人類最初のおばあさんであるイブ

                        のお墓がある。

                        詳しい地図を見るとアッシール山脈の麓には旧約聖書の

                        登場人物の名前を冠した地名がいくつか見られる。

                         

                        民話や伝承をもとにハインリッヒ・シュリーマンはトロイの

                        遺跡を発見した。

                         

                        あの世でもう一度この人間界に生まれてきたら、このアッシールの

                        発掘調査に一生を捧げたい。

                         

                        サウディアラビアという国は、そうした好奇心を持つ者には

                        たまらない魅力とロマンを秘めた国であった。


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                        人々もすなるブログといふものを、シロフクロウもしてみむとてするなり。 余は多摩動物公園に住まふシロフクロウなり。最近余をしげしげと訪ぬる男あり、写真機をたずさふ。この男余に名前を貸し賜へと請ふるにより余の名を貸したり。さてこそ余の見たる人の世の事々なれ。

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